腕時計基礎知識

江戸時代の時刻制度

定時法とは

1日の長さを100等分とか12等分などに分割する時刻制度を定時法といい、現在は24等分しています。
現在のような時刻制度を用いるようになったのは、1872年(明治5年)11月1日付け太政官布告からです。布告後は太陽の動きに合わせた『太陽暦』(グレゴリオ暦)に基づき、1年は365日、1日は24時間、何時何分という時刻表示による“定時法”になりました。

不定時法とは

1日を昼と夜に分け、その各々を等分に分割するのを不定時法といいます。
江戸時代の時刻制度については、今や旧暦となってしまった『太陽太陰暦』、つまり月の動きに合わせる暦に基づき、日の在るうちが昼で、日が暮れれば夜とし、昼夜をそれぞれ6等分し、これを一刻(いっとき)として時間を計る“不定時法”を採用していました。
このような時刻制度は現在の時計のある生活では奇妙に映りますが、時計のない昔の生活では、「明るい時は昼、暗い時は夜」というわかりやすい発想として受け入れられていたようです。
昼と夜の長さは季節によって異なるため、分割した単位時間の長さも変化します。
江戸時代では時の基準を夜明け(明け六ツ)と日暮れ(暮れ六ツ)とし、これを境に1日を昼間と夜間に分けその各々を6等分しました。分割した単位時間の一刻の長さは昼と夜で、さらに季節によって変わるという複雑な時刻制度でした。時の呼び方は、1昼夜12の刻に十二支を当て、子の刻、丑の刻などと呼び、別に子の刻と午の刻を九ツとして、八ツ、七ツ、六ツ、五ツ、四ツの数での呼び方もしました。しかし、この呼び方だと1日に同じ数が2度あるので、夜の九ツ・昼の九ツ、明け六ツ・暮れ六ツなど、昼夜、明暮等の区別が必要でした。

時の呼び方

干支による言い表し方

暦には現在でも「子(ね)」「丑(うし)」…という『十二支』が使われているが、“不定時法”の頃の時刻や方位の呼び方には数字ではなく十二支が当てはめられていました。これは太陽の動きで時間を計るには、その方角を読むのが便利だったことからだと考えられます。(「子(ね)」の方角を北にして、右回りに十二支を当てはめていくと分かり易い。)
さらに一刻(いっとき)を4等分して細かく表した。例えば“草木も眠る丑三つ時…”は、「丑(うし)」の一刻(いっとき)=夜中の1時~3時を4等分した3番目のところだから、2時~2時半までの約30分間ということになり、また、一刻(いっとき)の真ん中は“正刻(しょうこく)”といい、「正午(しょううま)」は「午(うま)」の一刻(いっとき)=11時~13時の真ん中だから12時にあたり、“正午(しょうご)”というのはこの名残になります。

数による言い表し方

“不定時法”による時刻の言い表し方については、干支の他に数字も使われていました。
日の出前に星が見えなくなる時刻を「明け六ツ(あけむつ)」と言い、日が暮れて星が見える時刻を「暮れ六ツ(くれむつ)」と言いました。そして、昼夜とも順に、六ツ、五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツ、六ツと数えていました。

明け六ツ⇒朝五ツ⇒昼四ツ⇒真昼九ツ⇒昼八ツ⇒夕七ツ⇒暮れ六ツ
⇒暮れ六ツ⇒宵五ツ⇒夜四ツ⇒真夜九ツ⇒夜八ツ⇒暁七ツ⇒明け六ツ

この数え方は易の考え方に由来しています。(中国の陰陽説では、奇数を“陽”、偶数を“陰”として、特に最も大きな陽数である“9”を活力のある特別な数字としていました。)

この時刻制度や時の呼び名はいつから始まったかは良くわかりません。平安時代は水時計である漏刻を採用していたので、現在と同じような「一とき」は一定時間で、一日を真夜中の「子」から始まる十二支で表わしていました。九二七年に制定された「延喜式」にもそのような規程があり、宮城の門は朝開き,夜閉じていました。その時刻に太鼓を打つ役目の陰陽寮は日の出,日の入りの時刻を計算し、それにあわせて、季節により開門、閉門の時刻を変えていたようです。また、当時は十二支の時刻を太鼓で、その下の時刻を鐘で知らせていた。子と午の時刻は太鼓を九つ、丑と未は八つ、寅と申は七つ、卯と酉は六つ、辰と戌は五つ、巳と亥は四つ太鼓を打っていました。この時刻の太鼓の数が江戸時代の時刻の呼び名の基となったようです。

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